全国盲ろう者体験文コンクール

第8回 受賞作品

特賞 

「まんだまんだ、これから」

森みづゑ(鳥取県 弱視難聴)

 
 「おかあさん、すごーい!! 点字も手話も勉強してるの?!」
 帰省した息子の嫁が、こたつの上のテキストと連絡ノートを見て驚いたように私に言いました。続けて、厚さ5センチ程のファイルを手に取り「これなーに?」と質問します。私は嫁のびっくりする様子がおもしろくて、笑いながら「それは点字をゆび先で読む勉強に使うもの、点がいっぱいあるのは、ひらがなの【め】なんだよ」と、教えてあげました。私は小さいころから難聴で勉強は分からないことが多かったので、自信をもって答えられたことがとてもうれしかったです。
 「鳥取盲ろう者友の会」の会員になる前の私は、自分の部屋でひとり過ごすことが多く、家族との買い物以外は出かけることもありませんでした。今は、毎週点字や手話を習い、毎月友の会の交流会に参加して、習った手話や、指点字を使って挨拶ができるようになりました。そんな私の体験を伝えたいと思います。
 中学卒業後、技術を身につけるため広島にある障害者向け理容専門学校に入学しましたが、聞こえないのは私だけ。授業は聞こえる人のペースでどんどん進みました。最後までがんばって卒業しましたが、理容師の資格はとれませんでした。仕方なく鳥取県の実家に帰り、車を運転して家業の魚屋と畑を手伝いました。結婚して長男を出産した頃から目も徐々に見えにくくなりました。時々、昔を思い出し、もし目が見えていれば、息子にあれもこれもしてやれただろうにと、悔しくて切ない気持ちになることがあります。
 平成27年冬、県の職員が家に訪ねて来て、色々説明を聞いて初めて自分が「盲ろう者」だと知りました。そして「鳥取盲ろう者友の会」の交流会に誘われて参加しました。会長の村岡(むらおか)さんは、家族以外の人と一緒に全国の行事に参加すると聞いて驚きました。また、支援する人は同年代の女性が多く、優しく接してくれました。聞こえるほうの耳の近くで相手の話すことや、部屋の様子など丁寧に伝えてくれました。参加する前は、見えなくて、聞こえにくいので、心配や不安もありました。でも、いつもだれかがそばにいて、腕を組ませてくれて、会話のサポートをしてくれるので交流会がとても楽しみになりました。
 5年に1度、お盆に小学校の同級会があります。今回は、盲ろう者支援センターと、同級会の幹事さんが事前に相談を重ね、通訳・介助員と一緒に出席しました。
 席に座り、始めから終わりまで、ずっと私の隣にいて様子を伝えてくれました。会話はもちろん、司会者の様子、お料理、着ている服や、薄くなった頭や、カラオケの様子もよく分かりました。
 後半になると、席を移動する人も多くなります。通訳・介助員が「みづゑさんもみんなのところに行きませんか? 一緒に行きますよ」と、声を掛けてくれたので「じゃ、行ってみようか」と、全員の席を回り、子供や孫、親や兄弟、懐かしい話、最近の様子を話したり、聞いたりすることができました。そして昔と変わらない呼び方で「みづゑ! 5年後、また会おうな!」と笑顔で握手をして解散しました。
 10年前、一人で参加したとき、自分の障害を同級生に伝えることができず、私は会話も食事も楽しむことができませんでした。
 けれど今回、楽しい時間を過ごしてから気持ちもぐんと明るくなりました。
 さて、友の会では、手話で話す人、指で点字を打つ人、私と同じように耳の近くで話を聞く人、いろいろな人に出会いました。皆さんともっとお話したくて、手話と点字と同時に勉強を始めることにしました。手話は形でわかるのでおもしろいです。指先で点字を読むことはとても難しいけど、週に2回、通訳・介助の人と一緒に盲ろう者支援センターや、近所の文化センターに行き、勉強・おしゃべり・ランチをする時間を楽しみにしています。
 あるとき、交流会で今本(いまもと)副会長が使っている文字を大きくして、色を変えて読みやすくする機械を貸してくれました。背景を黒に、文字を白にすると、読めなくなったと思っていた印刷された文字が自分で読めたのでびっくりしました。眼科の先生に文字が読めたことを伝えると先生もびっくりしていました。
 先日、村岡会長に会ったとき、覚えたばかりの指点字に挑戦してみました。会長の指に私の指を重ねて、ゆっくり「も・り・み・づ・え」と打ちました。村岡会長は「ず?・づ?」と私の手のひらに書いてこられたので、私は「づ」と書いて答えました。直接、お話ができてすごくうれしくなったので、もっとたくさんお話しできるようにがんばります。
 昨年の秋には、中・四国盲ろう者大会(島根)に初めて参加しました。今年の夏、全国盲ろう者大会(岩手)に参加しようと思っています。そこで全国の皆さんと手話や指点字でお話しするために「まんだまんだ、これから!」楽しみながら頑張ります。
 
 ※「まんだまんだ」とは、鳥取県中部の方言で、「まだまだ」という意味です。

 

入賞

「盲ろう者の父として」

井戸上勝利(奈良県 弱視ろう)
 

 私は現在、奈良盲ろう者友の会「やまとの輪」副会長を務めています。生まれつき耳が聴こえず、目については網膜色素変性症(もうまくしきそへんせいしょう)・視野狭窄(しやきょうさく)・白内障(はくないしょう)・夜盲症(やもうしょう)があります。また平衡障害(へいこうしょうがい)もあり、からだのバランスを崩すときもあります。
 目について気になったのは奈良県立ろう学校小学部2~3年の頃です。ろう学校で夏に臨海学校に行ったとき、夕方暗くなってから皆で散歩に出かけました。みんな一人で歩いているのに、私は先生が手をつないでくれていました。ほかの生徒たちと自分は何か違うんだろうか? と思いました。その後、中等部・高等部へと進んでも目の病気についての理解は臨海学校で疑問に思ったときと、それほど変わってはいませんでした。
 転機は25歳の頃です。「奈良県視聴覚障害者の会」というグループがあるということを知りました。ろう者として生きてきた私は、プライドがあり視聴覚障害者・盲ろう者であると認めたくありませんでした。しかし、小学部の頃から、夜は誰かと一緒でなければ歩けない状況がありました。実際に盲ろう者が通訳・介助者と出かける様子を目にし、私も通訳・介助者とともに活動する姿を想像し、将来に対しての心構えが必要だと自覚し、27歳のときに視聴覚障害者の会に入会しました。その会は「奈良盲ろう者友の会」となり、現在に至っています。今では、通訳・介助者とともに、友の会、聴覚障害者協会の会議や行事に積極的に参加しています。また、個人的な通院、趣味関係にも通訳・介助派遣を利用しています。
 私は中学部から陸上部で砲丸投げを始めました。高等部3年のときに、全国ろうあ者陸上大会に出場し個人で2位、さらに奈良県立ろう学校が団体でも2位になりました。さらに20歳のとき、全国身体障害者スポーツ大会でなんと優勝することができました。私にとって誇りです。
 陸上競技を通じて知り合った妻と27歳のときに結婚し、二人の子どもに恵まれました。上は娘で、下は息子です。息子は今年成人式を迎えました。現在大学生で、彼もスポーツマンです。
 もう一つの誇りはこの息子です。息子は幼い頃から人懐こい性格でした。小学1年生のとき、地域の子ども会野球部に入りました。6年生になるとその親がスタッフとして世話役をすることになっていました。
 それまで私は、聴こえる人とコミュニケーションをとる経験が少なく、保護者の皆さんの中に入るのが恥ずかしく、とても消極的でした。しかし息子は6年生としてキャプテンとなり、息子のために頑張ろうと思いました。聴こえないこと、夜は見えにくいことなど伝え、保護者の方に理解してもらいました。皆さんは「わかりました」「気にしないで」「大丈夫ですよ」と身振りで伝えてくれました。「手話を教えて」とも言ってくれて、聴こえる人たちと通じ合うことができました。
 中学時代は、地域のリトルシニアの野球チームに、高校でも野球部に入りました。高校では部員数も多くベンチに入るのも大変な中、息子は1年生で一人レギュラーに選ばれました。3年間レギュラーとして活躍し、3年生のときにはキャプテンに指名されました。明るい性格で人づきあいも上手く、キャプテンとしての役割を果たせたと思います。
 親としては保護者会があり、代々キャプテンの親が会長になる決まりがありました。その話を聞いたとき、盲ろうの立場で引きうけられるのか不安でした。しかし頑張っている息子のために私も頑張ろうと心を決めました。保護者会のとき、盲ろう者であることを告げ、通訳・介助が必要になるので、ご了承いただくようお願いしました。
 会長として、役員会では司会進行、試合の応援では時間確認や会員の皆さんへの連絡や挨拶など、大変なことがいろいろありましたが、通訳・介助者に入ってもらい、手探りで進めました。役員会や試合の応援は移動することも多く、一人では危ないこともたくさんあったと思います。しかし通訳・介助者がいて、安心していろんな場面に参加することができました。
 息子は3年間よく頑張りました。甲子園出場はかないませんでしたが、最高の高校時代を過ごしたと思います。高校最後、野球部の送別会のとき、私も会長として最後のスピーチをしました。3年間の野球部生活の映像が流れる中、子ども達から親へのメッセージが語られました。息子からも私たち夫婦へのメッセージがあり、妻も私も泣いてしまいました。横にいる通訳・介助者ももらい泣きしていました。息子が語ったメッセージは次のような内容でした。
 「小学校に入ってから高校までの12年間、野球をやらせてもらって、毎日忙しいのに弁当を作ってくれたり、応援をしてもらったり、いろいろサポートしてもらってありがとうございました。将来必ず恩返しをしたいと思っています。」
 盲ろう者でも通訳・介助があれば、健常者と同様に生活、活動ができます。盲ろう者であることの自覚と自信を持って通訳・介助者とともに活動を広めていきましょう。