全国盲ろう者体験文コンクール

第9回 受賞作品 

特賞 

「うれしかった、心に残った支援」

田畑 快仁(神奈川県 弱視ろう)

 5月1日~3日、鹿児島に行った。私が生まれて初めて一人だけで飛行機に乗った旅行だった。私には先天的に弱視ろうの盲ろう障害があるが、いつか一人で旅行に行きたいという夢があった。私は去年の4月に20歳になった。だから、自分だけで行動をするなど、たくさんのことに挑戦をしたい気持ちがより強くなった。盲ろう者が、自分だけで行動をし、コミュニケーションをすることには、確かに困難がある。しかし、日ごろ私は、筆談でコミュニケーションをするなど、障害の有無に関わらず様々な人々と意思疎通をすることを積極的に行っている。ある盲ろう障害の先輩から、一人旅の経験談を聞き、具体的な工夫の方法など教えてもらった。先輩の話を聴き、私も自分で自由に旅行の計画を考え、実行したい気持ちがより強くなった。
 まず自分で旅行の日程、場所、時間などの予定表を書き、盲ろう者通訳・介助員派遣依頼をした。鹿児島空港に着いてから、通訳・介助員からの支援を受ける。旅行の当日、羽田空港のカウンターで職員に誘導介助の依頼をした。私は事前に、自分の障害と必要な配慮についてメモに書いていた。そのメモを見せたが、空港のカウンターの職員は普通に話し始めた。しかし、私は耳が聞こえないので、声を聞くことができない。「聞こえない」と身振りで示すと、職員は急いでボールペンで書いた紙を私に渡した。しかし、私には、文字が細くて見えなかった。「見えない」と示すと、太いペンでメモを書いてくれたので、ようやく通じた。航空会社の職員は、盲ろう者に会ったことがないのかもしれない。盲ろう者への理解が足りないと思った。しかし、とにかく一生懸命耳が聞こえず、目もよく見えない私に通じるよう努力をしてくれた。私に伝えようと様々な工夫をしようとする気持ちが、とても嬉しかった。また、私の障害配慮の書き方も良くなかったのかもしれない。例えば、相手が読みやすいようにパソコンで打った文章を、小さな文字に変えてプリントしたが、私が見える大きな文字のままプリントした方が、必要な大きさを伝えやすいのかもしれない。その後、羽田空港の搭乗口まで職員から誘導介助をして貰った。飛行機に乗った時、私の隣に座った男性とCАさんからタブレットに文章を書いて貰った。具体的には、機内で注意が必要な点、鹿児島空港に着く時間と好きな飲み物など文字を書いてくれた。周囲の人々が筆談をしてくれることに感謝した。盲ろう者のことを知らない人がたくさんいる。しかし、私のような当事者が障害への配慮を受けることで、盲ろう者の理解をする人が少しずつ増えていくのかもしれない。 
 私は鹿児島市に住んでいる叔父と叔母の家に泊まった。盲ろう者通訳・介助員が、叔父の家で、私にシャワーの使い方、水の流し方などを通訳してくれた。そのお陰で、慣れない家でも自分で行動をすることができた。そして、5月2日の夜、大勢で夕食をとった。通訳・介助員を含めて、7人が集まった。その時、一番印象に残ったことは、盲ろう者通訳・介助員が私に親戚たちの会話の内容を通訳してくれたことである。通訳を受けたお陰で、4年前亡くなった私の父方の祖母の思い出を親戚が話す内容を理解することができた。私が生まれて初めて家族と一緒に鹿児島に行ったのは、5歳の時だった。鹿児島に住んでいる叔父は、その時から今までたくさんのビデオを撮っている。ビデオを見ながら、皆で祖母の思い出話をした。その中に、私と亡くなった祖母が一緒に踊るビデオがあった。小さかった私が、1人で鹿児島に来ることが出来るようになったことを、みんなが喜んでいた。私は亡くなった祖母が使った黄色の座椅子に座りながら、皆の話を聴いた。通訳・介助員が通訳してくれたお陰で、亡くなった祖母の思い出について、会話に加わることが出来てとても幸せだった。親戚の中には、手話に興味をもってくれた人もいる。以前、私が教えた挨拶などの手話を覚えていてくれた。盲ろう障害があるが、私は親戚の会話の中にいた。私は6年前、ニューリーダー研修で鹿児島県盲ろう者通訳・介助員に偶然出会った。それがきっかけで、鹿児島県の盲ろう者と通訳・介助員との交流が続いている。祖母の葬儀、法事など、盲ろう者通訳・介助員からの支援を受けるお陰で、親戚とのつながりが深まった。
 今まで私にはたくさんの困難があったが、多くの人々と出会い、交流をすることができた。たくさんのことに挑戦してきた。だから、これからも積極的に多くの人々と交流をしながら関係を築き、新しい挑戦をすることができるのを楽しみにしている。

 

入賞

「不思議な魅力」

林 美喜子(鹿児島県 全盲難聴)
 

 テーブルの上に何かがやってきた。弱視ろうのAさんが私の手を取り触らせてくれる。「なすび」だと私はわかった。Aさんの目の前で2本指を立てて、「2本詰めればいいんだよね」と確認のため聞いたが、ろうベースのAさんと盲ベースの私はコミュニケーションをとるのが上手ではない。
 聞いたことが伝わらなかったのか、無視するような形でAさんはいなくなってしまった。「ムッ」とした私は「同じ盲ろう者なんだから、もう少しコミュニケーションがとれるように努力してよ」と、怒ってしまった。そんな私を見て、ろう者の男性Bさんが、指を2本立てて、ゆっくり触らせてくれた。おもわず嬉しくなり「ありがとう」と頭を下げた。
 盲ろう者友の会が運営する作業所に通うようになり1年。ここでは、盲ろう者、盲者、ろう者、精神障害者が集まり、野菜の袋詰めの仕事をしています。ここに来て「難しいなー」と感じたことは、ろう者とのコミュニケーションです。40年以上も生きていて「どうしたら仲良くなるんだろう」と、これほど悩んだのも初めてでした。そんな中、Bさんは私にとって特別なろう者です。
 そのきっかけは、避難訓練でした。「誰に引きしてもらおうかな」と密かに考えていましたが、いきなり手をつかまれて「非難訓練が始まったんだ」とわかりました。盲ろうの私は、非難訓練の合図がわからなかったのです。
 手引きを受けながら「誰だろう」と思い、相手の腕に触れたとき腕時計があたり、Bさんとわかり、ビックリしました。
 Bさんは、人見知りが非常に激しく恥ずかしがりや、精神病も少し持っているせいか他者とのコミュニケーションが苦手で、ろう者との会話もほとんどしない。もともとが「一人の方が気楽でいい」といった、おとなしくて目立たない人なのです。そんなBさんが、盲ろう者の私を助けてくれた。私がここに来て4ヶ月、ろう者から初めて手引きをしてもらった記念日がBさんだなんて、本当にびっくりしました。そのとき、私は「この人は、いざとなったら大切なものを命がけで守ることができる勇敢な人かもしれない」と、不思議な魅力を感じてしまいました。
 あれから7ヶ月。生まれつき、ろうで声も出ない、手話しかわからないようなBさんと、盲ベースで手話はわからない、Bさんの顔も見えないので、笑っているのか怒っているのかわからないBさんに触れなければ何をしているのかさっぱりわからない私のコミュニケーションはとても大変です。それでも最初の頃は、私が覚えた簡単な手話と自然にできたサイン。
 Bさんが使う「マル」「バツ」でコミュニケーションをとり、「ご飯」「休み時間」などと、Bさんは教えてくれたし、私は「お疲れ様」のタッチをしたり、「また明日ね」の指切りをしたりして、楽しんでいました。お互い通じないことがたくさんあったと思いますが、気にしませんでした。でも、日にちが経っていくと私自身言いたいことが言えない。Bさんだって自分なりの考えがあり、行動している。でも「どうしたの?」と聞けない。私が考えてもわからない。わからないことばかりで、うんざりしてしまった。会話ができないろう者はいやだし「Bさんなんて面倒くさいから無視しよう」と思った。でも無視すると、なんだか私が意地悪をしているようで落ち着かなくなったのです。仕方がないので、「会話ができるように」と手話の勉強を始めましたが、私の手話は手の方向がおかしいらしくて通じません。そんなとき、「手紙を書こう」と思いつきました。ろう者は手紙が苦手なことは知っていたけれど、Bさんがどれだけ理解できるかなと思いましたが、自分の気持ちを形として伝えようと思いました。Bさんが少しでも読みやすいように、言葉を選び、短い手紙を書いて渡しました。Bさんにお礼を言いたいとき、謝りたいとき、必ず「ありがとう」「ごめんなさい」と書きました。そしたら、びっくり。本当に少しずつですが、Bさんが私の手のひらに慣れない手つきで文字を書いてくれるようになったのです。「面白い」とか「うるさい」など。
 そして、去年仕事納めの日。別れ際に「ありがとう」と初めて書いてくれました。私が、今までBさんにしていたことが「迷惑ではなかったんだ」とわかり、涙が出るくらい嬉しいでした。私が手話を覚えるのが難しいように、Bさんにとって普段使わない文字を書くということは、とても大変なことだと思います。盲ろう者の私に自分の気持ちを伝えたいという必死な思いから書けるようになった文字なんだなー。
 Bさんの持つ不思議な力と魅力に感心してしまいました。ほかのろう者とも同じように「仲良くなりたいなー」と思い、お礼の手紙を書いたのですが、うまくいきません。それどころか「生きる世界が違う」、そんな壁をろう者の人たちは私の前で作っているような気がします。私とBさんは、女性と男性だから触れあいながらコミュニケーションをとっている姿を見て、「ベタベタしていて気持ちが悪い」と言っているようです。
 盲ベースで少し聞こえる世界の私とろうで見える世界にいる人たちとでは感じ方が全く違い、分かり合うのは難しいことだと思います。盲ろう者の私に対し、Bさんは自分の気持ちが言えないことや、私の行動に誰よりもたくさん不満や我慢を抱えていると思います。こんなことにもめげずに、朝、会うとわざわざ「おはよう」と書いてくれるBさん。私が怒っているとわかると「ごめんなさい」と書き、嬉しいときは「ありがとう」と書いてくれる。Bさんは、本当に素敵な人だと思います。そして「ありがとう」「ごめんなさい」という文字が、とても大切なコミュニケーションだということを気付かせてくれたBさんに改めて不思議な魅力を感じています。Bさんのような魅力的な人たちが友の会に入り、支援してくれたら嬉しいです。

  

審査員賞

「指先から「夢、希望、勇気」を感じた時の喜び」

本田 真理花(岐阜県 全盲難聴)
 

 私は岐阜県の田舎に住むろうベース盲難聴で、高齢の主婦です。山伏(やまぶし)の生活ですが、点字を習得し、ブレイルセンスでメールをしたり、ニュースを読んだり、日記も書いたりして楽しくやっております。携帯やパソコンを経験したことのない私が、ブレイルセンスを使えるようになるなんて本当に夢のようです。
 20年ほど前から、ろうあ者の間で携帯電話を使い楽しくメールをしている様子を見るたびに、とてもうらやましく、とても寂しい思いがありました。
 その頃私は拡大読書器で新聞などを読んでおり、RP(網膜色素変性症)で加齢により視力が低下していくのにあわせて倍率を大きくしていきましたが、倍率を50倍にしても見えづらくなり、趣味の楽しみを失っていました。
 転機は、2015年の全国盲ろう者大会(静岡市)で、弱視の女性から「あなたは点字できますか? できたらお手紙ください」と言われたことです。それが刺激となって、私の心が大きく揺れました。
 点字を覚えることは無理かな……でも点字が読めたら何ができるのだろうか? と考えているうちに、やってみようと夢が湧いてきて、夫に相談したら「応援するから頑張れ」と背中を押してくれました。
 市役所で視覚障害生活情報センターを紹介され、個別指導を月に2回受けることになった。50音で「うれめふあいにな」から学び、1回に4点字ずつ進みます。単語も短文もあり、つまずいたときは左腕をテーブルの上で点字の位置をトントンと示しながら「何でしょう?」とおっしゃるたびに、理解できるようになっていきました。本当に楽しい研修でした。
 続いて、新しい文の読みを点訳者に聞いていただきました。最初は絵本で、真ん中にかわいい姿が浮き出していて、何とか感じました。次は「患者をいきる」と言う感動文で、何回も読み返しの練習で、つまずいたときは点字の位置の番号を言いながら「何でしょう」と話が弾みました。「広報が読めるようになったら卒業です」といわれたので、頑張りました。そして2017年1月に点字版「コミュニカ」を読んだら「ここで卒業しましょう」と言われてとても嬉しかったです。
 そうそう、点字の勉強の途中の2016年10月に齊藤さんに会いました。齊藤さんの指先がなめらかに撫でるように動いていたので、何かなー、すると彼は私の手を取って、触れさせた途端に何これ!!? これはなんだろう!? 生まれて初めて感じたものだった。「この機械の名前はブレイルセンスといいます。メールができます。ニュースを知ることが出来ます」と教えてくれました。「ブレイルセンスでメールのやり取りをしましょう」 といわれたのでびっくりしました。初めて触れた「点字携帯」で、本当にすごい機械があることは知りませんでした。驚きと新しいことを感じたひと時でした。
 家族や友達とメールができるといいと思い、市役所へ申請しました。それから2週間後にブレイルセンスが届きましたが、使い方を誰に教わればよいか分からないままでした。そんな時、齊藤さんから「メールの使い方の講習を行いますので、私の家に来てください。またルーターを買いましたか?」とFAがあった。「ルーター」という名前さえ知らず、慌ててしまい、どうすればよいかアドバイスをいただいた。
 齊藤さん宅へ向かうと、講師はなんと齊藤さんで、2人体制の手話通訳者が同席して通訳していただきながら進めていくことができました。ブレイルセンスのボタンの位置や名前の読み方などを分かりやすく説明していただいた。
 でも、何もかも初めてなので覚えるのは難しく感じました。(TT)
 翌日、大河内先生に初めてお目にかかりました。メールの使い方について、総勢10人と送受信を繰り返しながら進めていきました。そんな時に、眠気が出てしまい、それを振り払いながら最後まで頑張った。
 たった2日間の講習会だが、高齢の私にはなかなか大変でした。また、「コミュニケーション訓練個別訪問指導」の申し込み書類を頂き「志望動機」を思うままに書いて送った。
 家族や齊藤さんに協力をいただきながらメールの練習をしたけれど、ボタンを押し間違えたり、電源を入れ忘れる失敗もあった。
 メールをする友達が増えていき、頑張っていたら「あまり無理をすると疲れます。ぼちぼちやってください」と大河内先生からメールをいただいた。途端にドッドッと疲れが出てしまい、花の手入れや、音楽で気分転換をした。
 1ヶ月半ほどした頃に、「コミュニケーション訓練個別訪問指導」の決定通知が届いた。大河内先生と再会し、講習会が始まりました。地域指導者は娘がしてくれることになったのでとても良かった。1回の講習会は2日間で、なかなか覚えられずに大変でしたが、地域指導者がそばにいたから、とてもありがたく思いました。次回の講習までの間に、学んだことをゆっくりと、わかりやすく、こうこうと説明してくれながら、練習を繰り返す毎日でした。地域指導者が話したことを点字用紙に点字を打ちますと後から役に立ちます。覚えては忘れを繰り返していくうちに、何とか使いこなせるようになりました
けれど、まだまだ、私の冒険は続きます。
 本当に実りの多い講習会になりました。これも、皆さんのおかげで、ブレイルセンスから「夢、希望、勇気」をくれた時の喜びを感じ、自分の世界がさらに広がっていくようなそんな気持ちになれたかなーと思います。
 「苦心して ブレイルセンス 繋がる心」 齊藤さんからのメールがあった。
 先生をはじめ、協会の担当の方、同席していただいた手話通訳者の皆様、そして、家族、齊藤さんに感謝する気持ちで、いっぱいです。心から深くお礼を申し上げます。ありがとうございました。m(_)m