画像:体験文コンクール
   全国盲ろう者体験文コンクール      

第6回

画像:特賞・金色リボン特賞 

「盲ろう者になって」

小杉純弘(和歌山県 弱視ろう)

 私は15年前に目の病気で手術を受けてから目が不自由になった。当初は手術を受けると治まると思っていたが、1年後に再び悪くなって再手術をすることになった。その後も再発を繰り返し、そのたびに視力が落ち、だんだん見えなくなっていった。私はもともと耳が不自由であったが、そのうえ目まで不自由になったので、精神的苦痛は大きかった。人生に絶望感を抱いたこともあった。人として生きていくうえで、聴覚に障害があるだけでも不自由を感じるのに、視覚に障害を持つ重複障害者になったことは、やるせない気持ちで一杯であった。
 そんな中、平成16年に和歌山市内で盲ろう者の集会が開かれていることを難聴者の仲間から聞き、早速参加してみることにした。場所は「ビッグ愛」とのことだった。当時は盲ろう者が5、6人程度の小さな集会だった。ボランティアも5人か6人ぐらいだった。私は当時、聴覚障害者の認定を受けていたが、視覚障害者の認定を受けていなかった。そのため会員ではなく、見学者として参加していた。そのころだったと思うが、榎本(えのもと)さんという東京の盲ろう者の女性が、和歌山の集会に顔を出していたのを憶えている。それからは1人、2人と少しずつ盲ろう者の数が増え始めてきた。同年11月に和歌山盲ろう者友の会として新たに発足したのである。設立集会に兵庫県の友の会の代表者である吉田さんを講師として招いて講演会が開かれた。講師の吉田さんとは難聴者団体に所属していたころから旧知の間柄だったので、懐かしかったのを憶えている。ちなみに彼は海南市(かいなんし)出身で、和歌山県人だった。
 友の会に出るようになって2年ほどして、父がパーキンソン病で歩けなくなり、私が付き添い介護しなければならなくなった。そのうえ、認知症も併発して父を1人にしておくことができなくなって、友の会から足が遠のいた。友の会の交流会に通うのに、そのころは通訳・介助者もなく、一人でバスやタクシーなどの交通機関を利用して参加しなければならなかった。盲ろう者が一人で出歩くというのはなかなか大変で、道を歩くために足元の石やくぼみに注意して歩かなければならない。さらに前方の電柱や道路標識にぶつからないように注意して歩くようにしていた。バスに乗るときも補聴器の音量を大きくしてバスの行き先を確認して、乗るようにしなければならなかった。降りる時も停留所の名前を聞いて確認してから降りなければならなかった。
 さて父の介護だが、パーキンソン病の上に認知症もあるので、あちこち歩き回るので片時も目が離せない。私は目も不自由なので父の動きが分からず、ちょっと目を離したすきに父がいなくなり、探しに行ったこともあった。また、父をふろに入れたり、おむつを交換するのも骨の折れる作業であった。ある時、父がおむつの中に便をしたので、これを交換するためおむつを脱がせたら便が畳の上に零れ落ち、おむつを処理したあと畳の上の便を拭き取ったりもした。拭き取るのにも健常者なら目で見て拭き取るが、盲ろう者なのですべて手さぐりでしなければならなかった。そのため手についた便を洗い落とすのに一苦労であった。また布団に便をつけたら布団を交換し、便のついたシーツを洗濯しなければならなかった。盲ろう者が認知症の高齢者を介護するのは、健常者以上の努力が必要であることを痛感させられた。このほかにも父親のデイサービスの送り出しや出迎えなど、障害者でありながらすることが多く、友の会の行事にも最後まで出席することができず、途中で切り上げて帰らなければならなかった。父の介護を始めてから6年、盲ろう者の私が高齢者の親の介護に苦労しているのを知り、市の調査員に相談してくれた。市では障害支援課と高齢福祉課と協議した結果、昨年8月に入ってから、障害者支援センターの尽力のおかげで高齢者施設に入所することができた。その施設は「高齢サービス付き住宅」といい、今までのように高齢者が一つの部屋に数人で生活するのではなく、一人ひとり部屋を割り当てられて個別に入居できる、新しいタイプの高齢者集合住宅である。現在、二人部屋を与えられ父と同居している。現在、私たちの友の会では、盲ろう者のための集合住宅の建設を計画している。これは年齢とともに一人暮らしになっていく盲ろう者が多くなっている。盲ろう者は常に通訳・介助者の手を必要としている。ところが、現実にそのような通訳・介助者が出入りできる施設がないのである。大概が知的障害者や他の身体障害者と同居しなければならない。盲ろう者は視聴覚の重複障害者なので一般の障害者と違い、音声や手話、筆談などのコミュニケーション手段では内容が理解できないからだ。またテレビや新聞、ラジオを視聴できないため、社会の情報が入りにくく、一般社会の状況を理解できない。このような状況から盲ろう者専用の集合住宅の建設が望まれているのである。

画像:入賞・緑色リボン入賞

「かたい かたい」

林美喜子(鹿児島県 全盲難聴)

 「はーい」というホール中に響く声。
 全盲難聴の私が職員に次に受けるマッサージの利用者を連れてきてもらうためだ。私は40代半ばの女性。
 今のデイサービスに勤めて7年。以前病院で13年間勤務していたから社会人20年。ようやく社会人として自覚できるようになったかなと思う。
 私の仕事はマッサージと雑用。
 おしぼり作り、洗濯たたみ、椅子などの拭き掃除など。ホールがまるーくなっているので、移動は大変だ。たまに方向を失い、同じところをグルグル回っていても、忙しい職員は気が利かない。
 何も知らない人たちから見れば「ひどいなー」と思うかもしれないが、こんなことで落ち込んでいたら盲ろう者は仕事にならない。以前の私は「盲ろう者は無理はできないんだから必要最小限仕事やっていればいいや」と少し投げやりだったが今は違う。「仕事は手を抜いてはいけない。盲ろう者でもできることはしっかりやらないといけない」となり、なるべく丁寧にするようになった。利用者がホールにいるとき、私は一人で移動することを止められている。万が一利用者にぶつかったら大変だからだ。以前の私なら「きまりだから仕方ない」といった態度で手引きをしてもらっていたが今は違う。ペコペコ頭を下げて手引きをお願いする。
 マッサージ師というのは、利用者から苦情が多い。幸いマッサージ師が私一人なので比べられることなく自分のペースでできるのは有難い。盲ろう者というのは誰かと合わせて仕事をするってことは非常に難しいだろう。それにとても苦情が多い。私の大きな欠点は仕事中眠くなることだ。利用者が「見ているから起きときなさい」と言われても、私は「目」から刺激が何もないから眠くなる。40歳前後の利用者だから「力の加減を気をつけて」と看護師に言われ弱もみしていたら「弱(よわ)すぎる」と言われる。
 上司や同僚から大変睨まれたときもあった。今でもたまーに眠気は襲ってくるが、利用者それぞれに合わせて「かたい かたい」と思いつつマッサージしている。昔の人は体のケアーもせず、洗濯機や掃除機、車の無かった時代、力仕事ばかりしていたせいか、いろーんな病気を持っているせいか、本当に硬いのだ。思わず「諦めたほうがいいですよ」と言いたくなる。(笑)
 「力を入れればいい」というわけでもないので、ツボを探り骨に当たらないように流れるように手を動かす。これが私の自慢できるマッサージだ。一生懸命やっていると利用者の声が聞き取りにくい。何度聞き返しても聞こえない声の利用者もいる。
 そういうとき通訳・介助者がいればいいのになーと思うが、そうはいかない。仕方なく適当に返事をしていると「話を聞いてない」と苦情。仕事はあまり好きではないがマッサージは楽しい。朝2時間、昼3時間。約5時間の間に20人ぐらいの全身マッサージをする。
少ないと惨めになるが20人を超えると大変だ。利用者一人一人が満足するマッサージをしなければならない。
 おしゃべり好きな利用者は、時間が短いとおしゃべりも短くなるので不満を言う。肩こりや足の痺れが酷い利用者は、それなりのマッサージをしないと嫌みを言われる。だからと言って時間をかけていたら、おとなしい利用者まで「私には短い」とがっかりされる。マッサージをしたらしたで苦情になるので、休みの日は気楽だなーと思ったら大間違い。「あんたがいないと寂しい」「肩こりが酷くなった」とブツブツ言われる。マッサージ師というのは開き直ることができないと仕事にならない。なるべく苦情は最小限に抑えられるよう気を配っているが、うまくやっているかなーと反省する。私が最も大切にしていることは、利用者との心のふれあいだ。
 体が思うように動かない利用者にとって、朝起きて身支度して外出するというのは大変なことだと思う。だからこそ「来てくれてありがとう」「元気でいてね」「また来てね」と何度も伝える。マッサージが終わったら「タッチ」や握手をする。
 それだけで利用者は元気になっているように思う。介護制度も変わり、職員がコロコロ入れ替わる中、周りの情報を掴むのが苦手な盲ろう者の私が仕事をするのは楽ではないが、苦情を言いながらもニコニコしながらマッサージを受けてくれる利用者に感謝して「かたい かたい」と言いながらマッサージをしていきたいと思います。

画像:入賞・緑色リボン入賞

「二人三脚で」

米山通子(富山県 全盲難聴)

 私は74才、夫は80才の二人暮らしです。
 私は全盲で、聴力は補聴器をつけると、かろうじて会話ができます。夫は健常者です。我が家の1日は、新聞が配達され、夫がその新聞を私に読んでくれることから始まります。1時間ぐらいかけて読んでくれます。その時に時事問題の解説や世間話もしてくれます。それから二人で散歩に出かけます。時間は35分ぐらいで、同じコースを1日おきに逆まわりしています。朝のすがすがしい空気にふれながら、行き会う人に挨拶し、夫は通り道の家庭菜園や田んぼを眺めながら、我が家の小さな畑の野菜たちと比べているようです。私は家々から流れ出る朝食の用意の香りを楽しみながら歩いています。この朝のひとときが私の楽しみです。
 散歩から帰って朝食の用意をします。家事・炊事は自分でするのですが、できないこともあります。例えば、コンロの魚焼き器は時間設定、温度設定になっているので、夫の係りです。揚げ物は火が危ないのであまりしません。片付け物は、必ず自分でするようにしています。台所の食器戸棚の中や冷蔵庫の中、部屋の押入れ、タンスの中などは必ず自分で整理しています。物はいつも同じところに置くようにしています。夫も自分で片付けるときは極力私にその置き場所を教えてくれます。買い物はメモ書きにして二人で出かけ、私が美容院やお医者さんへ行くときも夫と一緒です。
 こうして二人三脚で、暮らしてきました。この先も、ずっとこの生活スタイルが続くものと思っていました。
 ところが、昨年7月、夫が自宅の玄関先で放水用のホースに足を絡まれ、転倒し腰を骨折して救急車で搬送され、これまでの生活スタイルが一変しました。夫は今までに大きな病気をしたこともなく、入院したこともありません。私が1人になることを心配して、近くの入院施設のない整形外科を希望し、自宅治療を選び、お医者さんに往診していただきました。夫が寝たきりになったので、私は自分で買い物もできなく、民生委員の方に相談して、介護保険が適用され、ヘルパーさんに週2回お願いすることになったのですが、買い物だけではなく、いろいろなことができないことに気づきました。お金を引き出そうと思っても近くの郵便局へも行けず、局長さんに相談し、自宅まで来ていただき、夫に払い戻し請求書を書いてもらい、局長さんと一緒に郵便局へ戻ってお金を引き出し自宅まで送っていただきました。電話機や必要な書類を夫のベッドのそばに置き、介護生活が始まりました。
 介護することは、あまり苦にならないのですが、人の出入りが多くなって精神的に疲れました。慣れて落ち着いた頃に、今まで夫にしてもらっていたことが自分にできないことに気が付きました。例えば、回覧板をお隣さんへ持って行くことや、自分が具合が悪くなっても一人で病院へ行くこともできず、来客があっても十分な応対もできません。こんなときは、お客さんに夫の寝ている部屋へ上がっていただき、夫にバトンを渡しました。
 夫が転倒して4週間ぐらい経った頃、どうにか自力でベッドから起き上がれるようになり、日ごとに快復に向かい、ひと安心しました。9月に入って自分で車を運転して通院できるようになり、今は週2回リハビリに通っていますが、高齢のこともあって完治するのにもうすこし時間がかかるようです。
 この介護生活を機に、これからのことを考えなければと思うようになりました。夫が言いました。「今にして思えば、火災や自然災害が起きていたら、動けなかっただろう」と。もし夫が入院して、私が一人になった時のことを考えると、病院へ見舞いに行くこともできず、電話連絡もできなくなったら、自分たちの力だけでは、どうすることもできないと思い、不安になりました。このことを福祉行政の中で助けていただけることを知りました。これをひとつの体験として、真剣に考えなければならないと思っています。
 私達は、平成22年11月に私の生まれ故郷である岩手県から、夫の古里である、この富山市に帰ってきました。知り合いも少なく、特に私の場合は一人で外出することがないので、近所付き合いがほとんどありません。富山へ来てから町内の共同作業(神社や運動公園の除草など)や文化祭などに、自分のできる範囲内で夫と共に参加するようにしています。
 この介護生活を通じて、いろいろな方に出会いました。そして助けていただきました。このことに感謝し、夫の完治を待ち、また、2人で散歩ができる日を楽しみにしています。

画像:審査員賞・青色リボン審査員賞

「盲ろう者になっても働き続けたい」

安食利行(島根県 弱視ろう)

 私は島根県に在住の弱視ろう者です。
 私が生まれた時に、何か障害があると言われていましたが、結局それが聞こえないことでした。小学校5年生までは普通の学校に通っていましたが、聞こえなくて学習が困難となり、ろう学校に転校しました。私は高等部に進んだ時、将来の仕事について真剣に考え始め、悩んでいたところ、友達のA君から「理容師になったらどうかな」と言われました。理容の仕事は、聴覚障害者ではお客様とのコミュニケーションが大切なのにできないじゃないかと思いました。A君から「聞こえない理容師も大勢いる」とO店に案内してもらい、まずびっくりしたことは、その理容店は、ろうあ者の店長(マスター)だったことです。ろうあ者でもできると初めてわかりました。そのマスターに手話で色々な話を聞くと、自分にもできるのではないだろうか、挑戦してみたいと思いました。「理容の技術はどこで習ったらいいか」と質問すると、丁寧に技術や資格を取る方法を教えてくれ、「ろう学校の理容科へ行ったら良い」とも言われました。その時、私は高等部2年だったので、ろう学校の理容科に行くなら高校1年からやり直す必要です。進路変更は大変だし、難しいのでろう学校を卒業後に理容美容の専門学校に行くことにしました。しかし、ろうあ者の入学を認めてくれるのか、非常に不安でした。高等部3年になっても進路が決まらないまま、自分は何になろうか、何ができるのか、頭の中がいっぱいでした。悩んだ末、やはり理容師になろうと決めました。
 ろう学校卒業後、地元の理容美容の専門学校に入学しました。先生の話が理解できるだろうか。授業についていけるだろうか。入学したものの本当にやっていけるだろうかと悩みました。
 「この専門学校ではろうあ者は初めてです、一年間あるから頑張ってください」と先生から言われたこの言葉に励まされ、自分で選んだ道だから、どんなことがあってもあきらめずに前向きに、卒業することを目標にしようと決意しましたが、先生の口話が読めず授業の内容が全く分からないこともありました。友達が大切なところに赤い線を引いたノートを貸してくれたり、他の生徒の励ましもあり何とか卒業試験に合格し、卒業することができました。この専門学校では開設以来、初のろうあ者の卒業生となりました。
 卒業後、ろうあ者が経営する理容店に就職でき、見習いとしていろんな技術を早く習得したいと必死に頑張っていました。
 そんな矢先の20代になったばかりの頃、暗い所がなんとなく見えにくい、目に障害があるのではと思うことが多くなりました。(聞こえない自分を支えた)目の障害の不安から胸が潰れるような気持ちで病院に行きました。
 「網膜色素変性症」の診断。網膜色素変性症という初めて聞く病名。これから自分はどうなっていくのか、失明するのだろうかと一層不安になる日が始まりました。本で調べてみると「次第に視野が狭くなって、将来は全盲になる恐れがある」と認めたくないことが書かれている。頭の中が真っ暗になり、どうすればよいのかわからない、落ち着かない眠れない日々が続きました。理容の仕事でお客様の髪の毛が見えにくい、色が確認できないことは致命的です。掃除する時にも、あちこち髪の毛が残ってきれいにゴミが取れないことなどあり、見えなくなっている事実を認め、遂に理容の仕事を断念せざるを得なくなりました。理容学校であんなに頑張って卒業したのに、理容の仕事を続けられない、身につけた理容の技術はもう何の役にも立たないと悟った時は、本当に辛く悔しい気持ちでした。仕事を辞めた後は、すべてを失った絶望の淵にはまり込んでいるような、うつろな生活をしていました。しかし、このままではいけない、聴覚と視覚に障害があっても仕事ができるところがないかと考え始め、職業安定所に相談に行きました。しかし、なかなか重複の障害を持つ私に仕事の話はなかったのですが、待ちに待ってようやく連絡があり、障害者が働ける職場とのことで早速見学に行くと、そこにはいろんな障害者、特に全盲の人も働いていて驚きました。まず実習することになりましたが「採用するかどうかは50%です」と言われ、もう自分は働くこともできないのではないかと失望して落ち込んでいましたが、なんと再度実習の機会が与えられ、その結果S・Y福祉工場に正規社員で入社することができました。本当に再び働けるという喜びで救われた気持ちです。
 私の仕事は機械を使いファイルなどを作るのですが、懸命に技術を覚え一日の製作枚数が最高記録になって、職場の人達から盲ろう者でもこんなにできるんだと驚かれたことがありました。
 盲ろう者として辛いこと苦しいことがあっても頑張って壁を乗り越えていけると実感しています。ずっと働き続けたい、その気持ちを強く持ち、勇気をもって生きていきたいと思います。